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本願寺四日市別院の歴史

 

1、「西別院」の発足

 大分県宇佐市の四日市に、東西本願寺別院の大伽藍が隣接して建てられています。このような景観は他の地域では見られません。

 九州御坊と呼ばれた浄土真宗の東西別院が発足したのは江戸時代中期の延享年間でした。戦国時代に、四日市の豪族・渡邊氏が立てた真勝寺という浄土真宗の寺院がありました。この寺で、住職の行動をめぐって末寺、門徒の間に派閥争いがおこり、やがて西派(西本願寺側のメンバー)をも巻き込んだ真勝寺騒動とよばれる大事件に発展しました。

 ついに江戸幕府の寺社奉行・大岡越前守の裁許により、真勝寺は東本願寺の別院・四日市御坊として発足する事となりました。裁判の結果、多くの犠牲者を出した西派の僧侶・門徒は対抗的に、西本願寺の四日市別院を発足させました。このようにして、四日市に東西本願寺の別院が甍を並べる事になりました。

 ※本願寺四日市別院の源流は16世紀後半、石山本願寺の顕如上人に帰依した宇佐郡の豪族・渡邉蔵人統綱:出家して専誉の創建した草庵が始まりと言われています。専誉はこの庵が真勝寺というお寺になります。後に真勝寺の正願によって大谷派(東派)へ改派しました。

 

2、真勝寺(四日市別院)騒動

 

 元文2(1737)年、真勝寺の住職の行状が表面化し、一方、真勝寺の末寺・門徒の派閥争いも激しくなり、住職・宗順師は本山より隠居させられました。住職・宗順師は西派の森山村・教覚寺、川部村、正明寺の助けをかり、末寺11ヶ寺と門徒1300戸を率いて西本願寺に改派するという事態となりました。この改派騒動の中で、真勝寺本堂の受け取り交渉が暴力事件を引き起こし、最終的に宗順師の西派が手にいれました。しかし、この暴力事件は幕府の寺社奉行・大岡越前守によって裁かれる事になりました。この結果、真勝寺は幕府に没収の後、東本願寺に下げ渡され、延亨元(1744)年に「本願寺掛所豊前四日市御坊真勝寺」が東別院として発足しました。一方、本願寺派(西派)には多くの犠牲者が出ました。真勝寺の住職であった宗順師、教覚寺恵明師は遠島(教覚寺恵明師は遠島前に獄死)。その他にも追放、獄死などの犠牲者が出ました。

 多くの犠牲者を出した西派の僧侶・門徒は西派も四日市に西本願寺の別院を建てようというと考え、延亨3(1746)年、ついに本願寺派(西派)別院を発足させました。当時の幕府の法度(法律)によって新しく寺を建てることは認められませんでした。そこで川部村の正明寺(現在は宇佐市川部地区に在所)を四日市に移転し、ご本山に差し上げることで「本願寺兼帯所豊前四日市正明寺」として発足させました。

 

3、「西別院」建立

 

 西別院では延亨5(1748)年、いよいよ建築に取り掛かりました。資料「四日市村年代記」によると「地形、石・土持に諸方により引き続き大勢が集まり、大変な賑わいであった」と記しています。そして騒動の際に寺から離れていった門徒も思い思いに復帰したのでした。このような事態に対して天領・日田代官所より、次のような注意を受けています。「村々より材木を集め人足を大勢集め、農業を捨て、大造りの人夫を差し出している。このような事では村の入用掛が困窮する元となるであろう。このような事を行わないように」と、しばしば注意を行っています。しかし、この注意は効き目がなく、やがて代官所は事態が改善されなければ処罰する、という通告を行っています。

 第17代法如上人は四日市に本願寺の別院が発足したことについて、「諸国に兼帯の霊場は多いが、西国にもその坊舎が必要という多年の志願があったが、ようやく去る延享のころ四日市別院が成立した。」とお慶びになられ、九州のお寺・門徒に対して四日市別院の護持発展を仰せられています。

 当時、本山は四日市別院を九州御坊として、九州全体を総括するものと位置づけようと考えていたのではないかと思われます。現在みられるような大伽藍建設を計画すると共に天保12(1848)年に、豊前・田ノ浦に置かれていた総会所を四日市別院の境内に移転させ、九州総会所としました。後に各地の宿泊施設として会所も開かれました。

 

4、九州御坊として

 西別院本堂が現在の大きさの本堂が完成したのが安政6(1859)年のことでした。別院施設は本堂・茶部屋・対面所・御殿・長御殿・香房・輪番所・御茶所・総会所・会所が整備され、太鼓楼・鐘楼を両軸に備えた本門、前門、二重に構えられた築地筋塀に囲まれ、他の別院では見られない壮大な偉観となっています。当時の参拝者に大きな感動を与えた事と思われます。

 これらの施設を完成させるのに二十数年の年月が必要でした。当時は幕末の世情混乱、経済不安の時代でした。幕府はこのような大伽藍建築を許可しませんでした。そこで、建て増しと修理を行うということで許可を得ました。その後に、日田代官所に内密に大伽藍の普請を認めさせています。

 作事は天保7(1836)年に始まりました。翌年には幕末動乱の幕開けとも言われる「大塩平八郎の乱」が起きています。幕末の経済危機、浦賀のペリー来寇、さらに災害飢饉が頻発し、九州全域(豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向)での懇志募集も思うにまかせませんでした。たびたびの懇志上納がむずかしくなると、村々の寺院の大木や、神社の森の大木が献木され、労力提供も行われました。

 建築の材木には中津市・山国川上流、宇佐市・駅館川上流、国東市などから伐りだし、不足する大木は遠く、玖珠郡の平家山から伐り出し、国東半島を回る海路で柳ヶ浦に運ばれました。また屋根瓦10万枚は境内に窯を築き焼き上げました。そのようにしてやがて完成した時には20余年の歳月が過ぎていました。

 このような困難な状況を克服して、豊前四日市御坊と呼ばれた別院の施設を建設した理由は何だったのでしょうか。九州における本願寺の拠点としようと考えたと思われます。九州総会所も田ノ浦から移転させてきています。本堂建築に当り、本山阿弥陀堂で使用されている「蓮台柱」の使用を特別に認めています。廣如上人は九州第一の寺院という意味の「海西真宗甲刹」額字ご染筆を下されています。そして、この額字の寸法は福井御坊の額字と同様にしています。内部の法具についても、西山御坊(別院)、津村御坊(別院)を参考にし、この四日市別院をいかに重要視していたかが分かります。

 安政六(一八五九)年の落慶法要にあたって当時の門主・廣如上人も「ああ、慶ばしき哉」というおことばに始まるご消息※Eを出されています。近い所であれば、出かけて行きたいと、述べられています。九州御坊の大伽藍落成をいかにお慶びになられたのかが思われるところです。

 

  

5、平成の大修復

 

 現在の本堂は建立より150年あまりの年月が経過、老朽化がすすみ、いたるところに補修を要することとなっていました。折しも平成の台風により被害は甚大なものとなっていました。そこで早急な修復が必要という声があがり、平成9年に輪番・川谷崇晃師が計画し、四日市別院本堂修復委員会が発足しました。その後計画は上原泰行師が継承し、平成12年に工事は完成しました。

 2003(平成15)年に即如ご門主ご親修で輪番・渡邉信壽師の下、蓮如上人500回忌遠忌法要と併せて本堂修復慶讃法要が盛大に厳修されました。5月26日から28日にかけて、各地からの参拝者で本堂はおろか境内に併設した架け出しまで人が溢れ、さらには隣の東別院を会場として提供して頂き、東西別院そろった素晴らしい法要となりました。

 このように四日市別院は長い歴史の間に実に多くのお念仏の同行のご苦労の元に建立されました。現在でも別院を訪れる参拝者は多く、特に報恩講法要は「おとりこし」とご門徒や地域の人に親しまれ、今も尚、続いています。今後もお念仏相続の拠点として、九州御坊・四日市別院がのちの世に語り継がれていくことが期待されます。

​別院の歴史

― 浄土真宗本願寺派本願寺四日市別院(お西) ―

 住所:〒879-0471

    大分県宇佐市四日市1410

 TEL:0978-32-1901

 FAX:0978-32-1844

 Email:n-gobou@agate.plala.or.jp

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